矢名樹ヒロタカの「お名前だけお借りします。」

有名人のお名前を「名前の法則」に基づき紹介、分析していきます。

尾崎豊さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第277回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第277回目の今日は尾崎豊さんです。

このお名前は本名です。

 

ローマ字で書くとOZAKI YUTAKAとなります。

苗字の最後の文字「き」と、下の名前の最初の文字「ゆ」、

フルネームの最初の文字「お」と、最後の文字「か」の母音が違います。

この様なお名前を同じ母音のペアが出来ない事から“ノーペアネーム”と呼びます。

“ノーペアネーム”は芸能活動が不安定になりがちです。

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小学校5年生の時に転校先のクラスに馴染めず、登校拒否をするなど決して褒められたものではない生徒だった少年時代、学校へ行く筈の時間に5歳上のお兄さんが購入したまま使用していなかったクラシック・ギターを弾いて、井上陽水さんやさだまさしさんなど主にフォークソングを唄っていたそうです。

中学時代は喫煙による停学処分、高校時代はオートバイ事故での停学に加え、同級生らと飲酒の末の乱闘騒ぎによる無期限の停学処分など、これまた決して褒められたものではない学生時代を送っていました。

しかし高校2年の時に応募したCBS ソニー主催のオーディションに合格していた為、高校在学中に歌手デビューが決まります。結局高校は出席日数が足りずに留年が決定した後に自主退学し、歌手(シンガーソングライター)として生きていく道を選びました。

 

そして1983年12月、シングル「15の夜」とアルバム「17歳の地図」の同時リリースでデビューを果たします。

このアルバム「17歳の地図」には「15の夜」をはじめ「I LOVE YOU」OH MY LITTLE GIRL僕が僕であるためになど後の代表曲となる歌がたくさん詰まっており、デビューアルバムにして渾身の1枚だったと言えるでしょう。

しかしリリースされた時点では大々的なプロモーションも行われなかった為、当時の売れ行きは芳しくありませんでした。

それでもじわじわとファンを獲得し、84年には6大都市でライブツアーを敢行します。

ただ最初にも触れた通り“ノーペアネーム”は不安定になりがちです。

6大都市のライブツアーを成功させた約1ヶ月後、日比谷野外音楽堂で行われたライブの出演中に何を思ったか高さ7メートルの証明台から飛び降りて、左足を骨折してしまうのです。

この行動も決して褒められたものではありませんね。良い子のみんなは絶対に真似をしないようにしましょう。

骨折をした事によってその後のスケジュールが全てキャンセルになるなど本人も落ち込んでいましたが、友人からの叱咤激励もあって奮起し、4枚目のシングルとなる「卒業」を作り上げました。

名前を母音ではなく文字で見ると(ゆた)と、「お」も「か」も「き」も入る完璧な“お・か・きネーム”なのです。

元々自分に厳しいタイプだったので友人の激励にも応えられたのですね。

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この「卒業」が大人たちに反骨心を抱く若者たちの共感を得た事で注目され、収録された2枚目のアルバム「回帰線」がチャート1位に輝くなど、一躍尾崎豊の名を世間に広めたのです。

世間からは「十代の教祖」「若者のカリスマ」などと呼ばれる様になりました。

下の名前に(ゆたか)と、「たか」という音が入るので“たかたかネーム”でもあります。

この“たかたかネーム”は芸能人の中でも特にリスペクトされる方に多い名前なのです。

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ただそれから1年も経たないうちに無期限の活動停止を発表するなど相変わらず安定しません。

87年に復帰と共にレコード会社を移籍し、再スタートを切ったものの年末に覚醒剤取締法違反で逮捕されてしまいました。これまた決して、いや絶対に褒められたものではありません。

“お・か・きネーム”は自分に厳しいあまり、時に自分を追い込みすぎてしまいやすいタイプでもあるのです。

 

しかし転んでもただでは起きず、拘置所の中で「太陽の欠片」を書き上げ、復帰後「夜のヒットスタジオ」で最初で最後の歌番組出演をします。

その頃には一般女性と結婚して、長男も授かりました。それからは歌詞も「反抗」的なものから「愛」を唄うものに変わっていった様です。

その点もノーペアネームの安定の無さと言えるかも知れません。

まぁ「軋むベッドの上に優しさ持ちより」眼を閉じたかと思えば、「盗んだバイクで走り」だして「夜の校舎窓ガラス壊して」まわるんですから、歌詞と同様に精神も不安定だったんじゃないでしょうかね。

 

90年に事務所を移籍し、レコード会社もCBS ソニーに戻るなどした挙句に個人事務所を設立したのですが、スケジュールの管理やプロモーションなども自ら行わなければならなくなったせいで多忙を極め、精神的にも自分を追い詰める事となってしまいました。

そして1992年、自宅のあったマンションから500メートル程離れた民家の軒先に倒れていたところを発見され、病院に搬送された後で一旦自宅に戻ったものの容体が急変し、再び病院で手当てを受けるも間に合わず26歳の若さでこの世を去りました。

死因は一時“肺水腫”とされましたが、覚醒剤服用による中毒症状など様々な説が飛び交い、いまだ謎の死とされています。

若くして亡くなった為にファンの間にも“美しい時代”の記憶しかなく、永遠のカリスマとされている様です。

下の名前に(たか)と、「ゆ」の字が入る“ゆうゆうネーム”でもあるので、もう少し長生きしていれば俳優業でも成功していたかも知れません。

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尾崎豊さんの熱狂的なファンの方が読むと物足りない「しらけてしまう」ような文章かも知れませんが、さほどファンでもなかった人間が書くとこんなものですよ。私はどちらかと言うと「行儀よく真面目」なほうの人間でしたから。

 

ただその遺伝子は長男の尾崎裕哉(おざきひろや)さんに受け継がれています。その声は“生き写しの様”と言われ、父・尾崎豊の残した名曲をカヴァーする事でファンを感動させています。

尾崎裕哉さんがこれから自分だけの地図をどこまで広げられるかが楽しみですね。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな有名人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

西城秀樹さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第276回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第276回目の今日は西城秀樹さんです。

このお名前は芸名です。

野口五郎さんは第143回、郷ひろみさんは第255回で紹介済みなので“新・御三家”の中で最後になってしまいました。)

 

ローマ字で書くとSAIJO HIDEKIとなります。

苗字の最後の「じょう」と、下の名前の最初の文字「ひ」、

フルネームの最初の文字「さ」と、最後の文字「き」の母音が違います。

この様なお名前を同じ母音のペアが出来ない事から“ノーペアネーム”と呼びます。

“ノーペアネーム”は芸能活動が不安定になりがちです。

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本名は木本龍雄といいます。

ローマ字で書くとKIMOTO TATSUOとなり、

苗字の最後の文字「と」と、下の名前の最初の文字「た」、

フルネームの最初の文字「き」と、最後の文字「お」の母音が違います。

本名も“ノーペアネーム”ですね。

 

二歳上のお兄さんと小学生の頃からバンドを組むなど音楽に慣れ親しんでいた木本龍雄少年は、高校一年生の時にR&B喫茶のレギュラーバンドのボーカルとして唄っていたところをスカウトされ、父親の反対を押し切って広島から上京して芸能界に入りました。

その半年後の1972年3月には一般公募によって選ばれた西城秀樹という芸名で、「恋する季節」で歌手デビューします。

すると1年も経たないうちに、同時期にデビューした野口五郎(のぐちごろう)さんや(ごう)ひろみさんと共に新・御三家と呼ばれ、一躍トップアイドルの仲間入りを果たしました。

特に5枚目のシングル「情熱の嵐」で、「🎵君が望むなら(ヒデキ〜!)」とファンが叫ぶ“ヒデキコール”で人気に火が点いたと言えるでしょう。

続く6枚目の「ちぎれた愛」で4週連続オリコン1位に輝くなど、人気を不動のものとします。

その後も「激しい恋」「傷だらけのローラ」などのヒット曲を連発し、多くの女性ファンを魅了しました。

しかしこの方の名前をお茶の間に浸透させたのは、私に言わせれば「ハウス・バーモントカレー」のCMだったと言わざるを得ません。

辛い筈のカレーに甘いリンゴと蜂蜜が溶け込んでいるという理不尽さと、それが一聴するだけで分かる明快なCMソング、更に「ヒデキ、感激〜!」と韻を踏むキャッチコピーを最後に本人が言う事で強烈な印象を与えたのです。

(同CMには「ヒデキ、ごきげん!」や「ヒデキ、満足!」など別バージョンのコピーもありましたが、一番浸透したのは「ヒデキ、感激〜!」でした。)

“ノーペアネーム”はCM運の強い名前です。

このCMは1973年から12年にも渡って放送され、バーモントカレーと共に西城秀樹さんの名前を世間に定着させました。

またドラマ「寺内貫太郎一家」に長男役で出演すると、主演の小林亜星(こばやしあせい)さんとの本気の親子喧嘩シーンも話題になりました。

芸名を母音ではなく文字で見ると(さいじょうひで)と「き」が入る上に、本名も(もとたつ)と、「き」と「お」が入る“お・か・きネーム”になります。

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アイドルとして多忙なスケジュールをこなしながらも喧嘩のシーンで手を抜かなかったのは自分への厳しさからだったでしょう。小林亜星さんに投げ飛ばされて腕を骨折した事もあった程ですから。

70年代中期は「アイドル水泳大会」の花形スターとして郷ひろみさんと毎回トップ争いをして盛り上げていました。

ただ胸毛から下腹部につながる体毛が印象的過ぎたのか、83年に唄った「ギャランドゥ」がいつしかへそ辺りの体毛の濃い男性を指す隠語として使われる様になってしまい、本来の意味(“Gal and do”を文字った女性名)を失ってしまいました。

まぁそれだけ印象的な活躍をされていたという事でしょう。

 

本業の歌以外の話題ばかりになってきてしまいましたが、ちゃんと本業でも大ヒットを飛ばしました。

79年に発表した「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」が、「ザ・ベストテン」の得点ボードが4桁までの為最高点となる9999点を2週に渡って獲得したのです。

この歌はサビの「Y.M.C.A」の文字を身体で表現する振り付けがヒットの要因になりました。70年代後半はピンク・レディーが一世を風靡していたので女子が真似を出来る振り付けはあっても、男子が真似を出来る振り付けはあまり無かったので(鬱憤がたまっていて)、当時の男子はこぞって「Y.M.C.A」の振り付けを真似したと思われます。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」は新・御三家の全てのシングルの中でも最大のヒットとなり、西城秀樹さんの代表曲となりました。

 

しかしそれほどのヒットを飛ばしたにも関わらず、80年代には“たのきんトリオ”などの後輩アイドルに押されて、ランキング形式ではない「夜のヒットスタジオ」などでしかテレビで唄う機会が無くなっていきます。

この点がノーペアネームの安定の無さと言えるかも知れません。

80年代は香港、シンガポールなどに進出してむしろ日本よりアジアでの人気のほうが高かったそうです。

90年代の秀樹さんの印象と言えば、余程のファンの方でない限り「ちびまる子ちゃん」のエンディングで流れた「走れ正直者」以外になかったんじゃないでしょうか。

2001年に一般女性と結婚するも直後に脳梗塞を発症し、それからは長い闘病生活が続きました。2年後に再び発症して言語障害の後遺症がありながらも何とか復帰し、新曲を発表するなど活動を続けていましたが2011年にまた再発して今度は右半身麻痺状態となります。

脳梗塞の影響か滑舌も悪くなり、若い頃から見てきた世代にとっては痛々しい姿でしたが、それでも懸命にリハビリを続けて杖をついて歩けるまでに回復しました。やはり自分に厳しい方だったのですね。

もう一つは、何としても60歳まで活動を続けて「ヒデキ、還暦!」と言いたいというモチベーションがあったからなのです。

これは私が茶化して言っているのではなく、ご本人が何かのインタビューで語っていた事なので間違いありません。きっとそれが病気と闘う為の心のよりどころになっていたのでしょう。

そして2015年4月13日、60歳の誕生日におよそ8年半ぶりとなるアルバムを発売し、赤坂BLITZで「ヒデキ還暦!」と題した記念のライブを開催しました。

盟友の野口五郎さんや小川知子(おがわともこ)さん、今陽子(こんようこ)さんなど往年の歌手の方々も駆けつけてお祝いし、最後は「YOUNG MAN」を唄ったそうです。

ええ、60歳でも「YOUNG MAN」唄っていいんです。何と言っても一番ヒットした代表曲ですから。

 

それから3年後の2018年5月16日、最後は急性心不全により63歳でこの世を去りました。

若い頃の“元祖・絶唱系”とも言える激しい唄いっぷりや「YOUNG MAN」の派手なイメージが先行していたせいか、亡くなってから歌唱力が再評価されている様です。

葬儀の出棺の際には「YOUNG MAN」と「ブルースカイブルー」が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びて斎場を後にしました。

「ブルースカイブルー」の歌詞にこんな一文があります。

「もう二度と逢えぬあの人・・・青空よ、遠い人に伝えて さよならと」

ファンならずとも、秀樹さんを失った「悲しみはあまりにも大きい」ですね。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな有名人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

渥美清さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第275回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第275回目の今日は渥美清さんです。

このお名前は芸名です。

 

ローマ字で書くとATSUMI KIYOSHIとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「イ」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

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“なめらかネーム”の特徴は男女を問わず俳優業に強く、ヒット作や当たり役に恵まれやすいという特性があります。

本名は田所康雄(たどころやすお)といいます。

 

1928年(昭和3年)、現在の東京都台東区にあたる東京府東京市下谷区で生まれた田所康雄少年は、17歳の誕生日に東京大空襲で自宅が被災してしまいました。

生計を立てる為に工員として働きながら担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたそうで、この頃の経験が後の演技に役立つ事になるとは夢にも思っていなかったでしょう。

一時は船乗りを志すも母親の猛反対で断念し、知り合いの伝手で旅まわりの演劇一座に入り喜劇俳優を目指す事となりました。

そこで芸名を名乗る際、小説の主人公から取った“渥美悦郎”という名前をつけていたのに、ある劇団のバラエティショーに出演した時に司会者が“渥美清”のほうが通りやすいからと、勝手に変えられてしまったという説があります。

いずれにせよそこで俳優業に強いなめらかネームになった訳です。

浅草のストリップ劇場でコメディアンとして舞台に上がっていた20代の半ばに肺結核で右肺を切除し、それまでのドタバタ喜劇が出来なくなってしまいました。

それでも徐々にテレビドラマや映画などに小さい役ながらも進出し、1961年からNHKで放送されたバラエティ番組「夢であいましょう」に出演して全国的な知名度が上がっていきました。

62年には「あいつばかりが何故もてる」で映画初主演すると、後に東映の社長となる岡田茂(おかだしげる)プロデューサーに引き抜かれて「喜劇急行列車」などの“列車シリーズ3部作”にいずれも主演するなど主役級の俳優となったのです。

ただ当時の東映はヤクザ映画が主本だった為に喜劇はウケが悪く、岡田茂さんは「これでは君にも悪いから松竹へ行ったほうがいい」と、渥美清さんを松竹へ譲る事となりました。

それはフジテレビでドラマ「男はつらいよ」が放送されていた時の事です。

 

◉甦った寅次郎

 

ドラマ版の「男はつらいよ」は1968年10月から半年間に渡って放送され、脚本(メインライター)は山田洋次(やまだようじ)さんが担当していました。

ところが視聴率が芳しくなかったせいもあり、「どうせこれっきりだろうから」と最終回で主人公の車寅次郎が一攫千金を狙って奄美大島までハブを捕まえに行き、そこでハブに噛まれて命を落とすというラストにしました。

はい、寅さんは一度死んだのです。

しかし寅次郎を死なせた事で視聴者から抗議の電話が殺到し、山田洋次さんをはじめとするスタッフ一同は罪滅ぼしの意味も込めて松竹で劇場版を制作する事にしました。

渥美清さんのファンの声が寅次郎を甦らせたのです。

映画はシリーズ化されて徐々に観客動員も増え、8作目には150万人近くを記録する大ヒットとなりました。以降も年2本のペースで新作が作られ松竹の、いや日本のお盆と正月は「寅さん」と言われるほどの定番となります。

主題歌もドラマ版から続いて渥美清さんの唄う男はつらいよが使われたので、全国民が知っていると言っても過言ではないほど有名な歌になりました。

なめらかネームは男性歌手運も強い名前なのです。

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映画に主演してその主題歌も唄ってヒットする、これはもう福山雅治さんクラスの二枚目でないと成し得ないワザですよ。

 

最終的には27年間で48作を数えるシリーズとなり、世界最長(作品数)の映画シリーズとしてギネスブックにも認定されました。

これほど「当たり役に恵まれた」と言える俳優が他にいたでしょうか。

渥美清さんは決して“二枚目”ではありませんでしたが、あの“四角い顔”は車寅次郎にぴったりであり、日本人にとって愛着の湧く顔だったのです。

ただ難を言えば「寅さん」のイメージが定着し過ぎて、他の役が演じるのが難しくなった事でしょうか。

1977年には「八つ墓村」で金田一耕助を演じましたが、私にも「寅さん」にしか見えませんでした。

 

亡くなられた後で渥美清さんに国民栄誉賞が贈られ、長きに渡って日本の顔(風物詩)となった栄誉が讃えられました。

俳優では長谷川一夫 (はせがわかずお)さん(なめらかネーム)以来2人目となります。

ここで本名の田所康雄(たどころやすお)という名前を見てみましょう。

ローマ字で書くとTADOKORO YASUO と、

苗字の最初と最後、下の名前の最初と最後で

母音がア➖オ、ア➖オとジグザグになっていますね。

線で表すとダブルスラッシュ(//)の様に苗字と下の名前が斜めの平行線になるのです。

実は歴史上の人物で同じ名前タイプの人がいます。

それは織田信長です。

ローマ字で書くとODA NOBUNAGAと、母音がオ➖ア、オ➖アとジグザグになっていますね。

という事で、この様なお名前を“ノブナガネーム”と呼びます。

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有名人でも数少ない希少なタイプですが、浜崎あゆみさんや大谷翔平選手など桁違いの活躍をされている方に該当する名前なので、ギネスブックに載ったり国民栄誉賞を受賞したりするのも納得ですね。

 

60歳を越えた頃から渥美清さんは体調が悪化し、それでもシリーズは続いた為にかなり無理をしての撮影が続きました。晩年は立っている事もままならず、撮影の合間にあのトランクを椅子代わりにして座っていたそうです。

44作目が公開された1991年には肝臓癌が見つかり、その3年後には肺への転移も確認されました。担当の主治医からは47作目の撮影は不可能と言われましたが何とか乗り切り撮影を終え、48作目までいったのは奇跡的だったと言えるでしょう。

その遺作となった48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」のラストシーン、阪神大震災で被災した神戸の街で復興に取り組む人たちに「本当に皆さん、ご苦労さまでした。」という一言が車寅次郎すなわち渥美清さんの最後のセリフとなりました。

96年8月、68歳でこの世を去りましたが、その姿は多くの日本人の心に焼き付けられています。

だから2019年に制作された「お帰り寅さん」でも過去の映像が使われ“主演・渥美清”となっているんですね。

 

私も全作品を見た訳ではありませんが、個人的に印象に残っているのは確か34作目の「寅次郎真実一路」だったと思うのですが、最後にまた旅へ出ようとした寅次郎が(すでに廃線になった)駅のホームで電車を待っているところへ声を掛けた男性が「待ってても電車来ないよ。」と言い、それに対して寅次郎が「そうか、待ってても来ないか。」というシーンです。

寅次郎が「(幸せは)待ってても来ない」と教えてくれた様な気がしてなりませんでした。

 

この様に有名人のお名前を母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

藤山寛美さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第274回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第274回目の今日は藤山寛美さんです。

このお名前は芸名です。

 

ローマ字で書くとFUJIYAMA KANBIとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

“なめらかネーム”の特徴は男女を問わず俳優業に強く、ヒット作や当たり役に恵まれやすいという特性があります。

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本名は稲垣完治(いながきかんじ)といいます。

明治から大正時代にかけて大阪の道頓堀に存在した劇団、成美団(せいびだん)の俳優藤山秋美(ふじやましゅうび)さんの末男に生まれた稲垣完治少年は、病気で他界した父の“藤山”を継承して芸名を藤山寛美とし、1933年(昭和8年)に4歳で初舞台を踏みました。

その後二台目渋谷天外(しぶやてんがい)さんの誘いで13歳の時に松竹家庭劇に移ります。

終戦前後の混乱の中で慰問隊として旧満州に渡ったり、中国のハルビン市でキャバレーのボーイや靴磨きをしたりしながらも1947年に帰国し、二台目渋谷天外さんが中心となって創設された松竹新喜劇に参加する事となりました。

そして51年、天外さん作の「桂春團治(かつらはるだんじ)」の舞台で演じた酒屋の丁稚(でっち)役が批評家や演劇評論家から高く評価され、たちまち人気者となったのです。

渋谷天外さんと藤山寛美さんのコンビは松竹新喜劇の二大看板として大勢のお客さんを集めましたが、俳優の子に生まれた事もあってか昔ながらの俳優・芸人気質(宵越しの金を持たない)であった為、毎晩の様に夜の街を豪遊していたといいます。それは本人だけでなく母親からも「遊ばん芸人は華が無うなる」と教えられていたそうです。

バーのボーイにチップとして車のキーを渡すなど、今では考えられない様なお金の使いっぷりでしたが、その分知人に騙されてお金を貸す事も多く(当然返ってこない)、いつしか借金をしながらも豪遊する様になり、66年には当時の金額でおよそ1億8千万円の負債を抱えて自己破産してしまいました。

そのせいで松竹芸能からもマネジメント契約を解除され、松竹新喜劇にも出演できなくなります。

寛美さん不在の時期はミヤコ蝶々(ちょうちょう)さんと南都雄二(なんとゆうじ)さん夫妻を迎えて新・松竹新喜劇を展開するも以前ほどの客足は伸びず、渋谷天外さんが脳出血で倒れた事もあって、松竹は寛美さんの借金を立て替えてまで、再び舞台に呼び戻す事となりました。

そうして返り咲いた寛美さんは松竹新喜劇の中心となり、1970年代は「藤山寛美3600秒」と題して松竹新喜劇の模様がテレビのゴールデンタイムで毎週放送されるなど、正に黄金時代となりました。

 

◉日本(西)の喜劇王

 

全盛期の松竹新喜劇の醍醐味は、何と言ってもラストで藤山寛美さん演じる(阿呆な)丁稚が泣くシーンです。何をやっても失敗ばかりで上手くいかなかった丁稚が困り果てた挙句、みっともない程わんわんと大声で泣きわめくのが定番でした。

ところがその丁稚が泣いた瞬間、会場のお客さんからは大きな拍手が沸き起こるのです。舞台の主役が涙を流しているのに、客が喜び笑っている。これは他の芝居なら異様な光景です。

では何故そんな不思議な現象が起きるのか?

それは丁稚が何度も失敗しながらも、彼なりに一生懸命取り組んできたからなのです。

頭が悪いなりに一生懸命考え、真剣に頑張ってきた姿をお客さんが見ていたからこそ、「よっしゃよっしゃ(よしよしの関西弁)、お前はどう仕様もない阿呆やけど、阿呆なりによう頑張ったな。」という哀れみと賛辞が入り混じった感情が、拍手となって沸き起こるのです。

これがもし丁稚がヘラヘラと笑いながら、ふざけてやっていたらそんな拍手は起こらないでしょう。

藤山寛美さんは丁稚を演じる時、ほとんど笑う事はありませんでした。演者が笑うと一生懸命さが伝わらないと、どこかで分かっていたのでしょう。

これはかの喜劇王チャップリンにも通じるものがあります。チャップリンも映画で主人公を演じていた時、ほとんど笑顔を見せませんでした。当の本人はいたって真剣に取り組んでいても、周りで様々なハプニングが起こる。本人が真剣だからこそより面白く映る。それがチャップリン無声映画の魅力であり、喜劇の真髄です。つまり笑うのは見ているお客さんであり、演者(コメディアン)は笑ってはいけないのです。

かつて「日本の喜劇王」と呼ばれた“エノケン”こと榎本健一 (えのもとけんいち)さんを東の喜劇王とするなら、西の喜劇王は間違いなく藤山寛美さんでしょう。

 

芸名を母音ではなく文字で見ると(ふじやまんび)、本名も(いながきかんじ)と、どちらも「か」や「き」が入る“お・か・きネーム”になります。

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松竹新喜劇に復帰後、20年間1日も休まずに舞台に立ち続けたという逸話が残っていて、財布の紐はゆるくても自分と芸事には厳しかったと思われます。

しかしそんな無理が祟ったせいか、1990年に60歳の若さでこの世を去りました。

 

五人の子供(うち二人は連れ子)は全員娘であった為、後継者はいないと思われましたが、三女(実子の中では長女)にあたる直子さんが、祖父と父の芸名を踏襲して藤山直美(ふじやまなおみ)と名乗り、女優兼喜劇役者として後を継ぐ事となったのです。

藤山直美さんも“なめらかネーム”です。)

さてこの“藤山”という苗字、文字で見ると(ふじやま)と「ふじ」が入る“ふじさんネーム”でもあります。文字で見ると言うより読み方を変えると(ふじさん)とも読めるので生粋の“ふじさんネーム”ですね。

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これは褒め言葉として捉えてもらいたいのですが、藤山寛美さんは決して“二枚目”ではありませんでしたし、藤山直美さんも決して“美人女優”ではありません。それでもこの“ふじさんネーム”の俳優は「実力派」と呼ばれる方が多いのです。

藤山直美さんも「実力派女優」と呼ばれていますよ、ね。

また、五女(実子の中では三女)にあたる美千留さんの長男(寛美さんの孫)で俳優として活動していた酒井扇治郎(さかいせんじろう)さんが“藤山”の名を受け継ぎ藤山扇治郎と改名して松竹新喜劇に入団しました。

藤山寛美さんの意志は、その名前と遺伝子と共に浪速の演劇界に受け継がれているのです。

 

この様に有名人のお名前を母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

藤田まことさん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第273回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第273回目の今日は藤田まことさんです。

このお名前は芸名です。

 

ローマ字で書くとFUJITA MAKOTOとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

“なめらかネーム”の特徴は男女を問わず俳優業に強く、ヒット作や当たり役に恵まれやすいという特性があります。

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本名は原田 眞(HARADA MAKOTO)といい、こちらもなめらかネームですね。

 

無声映画時代のスター、藤間林太郎(ふじまりんたろう)さんの次男に生まれた藤田まことさんは、父の影響で関西を中心とした芝居の一座に参加するようになり、17歳の時に歌謡ショーの公演で初舞台を踏みました。

芸名の“藤田”もこの時に名付けられました。おそらく父親の芸名から“藤”の字を取ったのでしょう。

しかし藤間林太郎さんは昔ながらの役者気質で家庭を顧みないタイプだったので、あまり宛てに出来ないと考えた藤田まことさんは歌手を目指して上京し、ディック・ミネさんのかばん持ちをしながら前座の歌手として修行を始めました。

1年程で関西へ戻ったある時、病気になった司会者の代役を務めた事をきっかけに司会の仕事もする様になります。

すると漫才コンビ中田ダイマル・ラケットから司会をやめて役者にならないかと助言(スカウト)され、ダイマル・ラケット劇団に入団する事となりました。

そうして1957年、コメディー時代劇「ダイラケのびっくり捕物帖」でテレビに初出演すると、4年後に「笑いの王国」のCM(当時は生放送が主流)に出演して街でも声を掛けられる様になりました。

そして62年、「てなもんや三度笠」でそれまでの脇役から初めて主役に抜擢され、同番組のスポンサー前田製菓のクラッカーを持ち、「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」というギャグが大当たりして(今とは時代が違いますから、こんなダジャレでも大ウケしたんです)お茶の間の人気者となりました。

番組も一時は視聴率が60%を越えるほどの大ヒットとなり(今とは時代が違いますから)、まさしく“当たり”役となったのです。

とは言えさすがにそれ程の大人気がいつまでも続く筈はなく、番組末期には視聴率も3〜4%台まで低迷して「てなもんや一本槍」「てなもんや二刀流」と続いた続編でも巻き返しは図れぬまま「てなもんや」シリーズは71年2月に終了となります。

 

藤田まことさん自身の人気も下降し、世間からも忘れられかけて地方のキャバレーの巡業に出ていた1973年、朝日放送のプロデューサーから電話で時代劇出演のオファーを受けます。それが「必殺仕掛人」ヒットの後を受けて制作された必殺シリーズ第2作「必殺仕置人」の中村主水(なかむらもんど)役でした。

世間にコメディアンのイメージがついていた藤田まことさんを殺し屋役に起用した理由は、「てなもんや三度笠」の「腕と度胸は強いが人情と女には弱い」という役どころが、「一見情けない男だが実は腕利きの殺し屋」という中村主水のイメージにぴったりだったからなのです。

そういった硬軟合わせた二面性が受けて、主役ではなかった中村主水が以降続く「必殺シリーズ」を陰で支える人気キャラクターとなりました。

シリーズ第10作「新・必殺仕置人」では中村主水藤田まことの名前が出演者のクレジット上でトップとなり、第15作「必殺仕事人」でとうとう主役となったのです。

以降も「必殺シリーズ」は「必殺仕舞人」「必殺渡し人」「必殺仕切人」など別のキャラクターを主役に据えたシリーズが放送されましたが“必殺と言えば仕事人”と言われる程「必殺仕事人」は代表的な作品となり、断続的に何本も続編が制作されました。

藤田まことさんはまたも当たり役に恵まれ、ヒット作に恵まれたという事になりますね。

(余談ですが毎回「婿どの!」のセリフで中村主水をたしなめる姑役の菅井(すがい)きんさんもなめらかネームでした。)

しかしそれだけでは終わりません。15年続いた「必殺シリーズ」が一旦の終了を迎えた後、「はぐれ刑事純情派」の出演が決まります。

いわゆる“刑事モノ”の割に派手なアクションシーンもなく、「必殺シリーズ」の様な“見せ場”もなかった為に藤田さん自身も「ヒットしないだろう」と思っていましたが、じわじわと半年おきに新作が放送されて「なんやかんや」で18年にも渡って続いた人気シリーズとなったのです。

これは褒め言葉として捉えてもらいたいのですが、藤田まことさんは決して“二枚目”ではありません。それでも母音ではなく文字で見ると(ふじたまこと)と、「ふじ」が入る“ふじさんネーム”でもあります。

この“ふじさんネーム”の俳優は「実力派」と呼ばれる方が多いのです。

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あとこれだけの当たり役やヒット作に恵まれたのですから、やはり本名も芸名も“なめらかネーム”だった俳優運の強さが生んだ結果と言えるのではないでしょうか。

 

この様に有名人のお名前を母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

津川雅彦さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第272回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第272回目の今日は津川雅彦さんです。

このお名前は芸名です。

 

ローマ字で書くとTSUGAWA MASAHIKOとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

“なめらかネーム”の特徴は男女を問わず俳優業に強く、ヒット作や当たり役に恵まれやすいという特性があります。

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歌舞伎俳優の四代目澤村國太郎(さわむらくにたろう)さんを父に、女優のマキノ智子(ともこ)さんを母に持つ芸能一家に生まれた津川雅彦さんは、兄の長門裕之(ながとひろゆき)さん同様、幼少期から子役として度々映画に出演していました。

本名は加藤(かとう)雅彦といいます。当時は本名と父の“澤村”を冠した澤村マサヒコという名義を使い分けていました。

1956年に「狂った果実」が映画化される際、主演の石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さんの弟役に、原作者の石原慎太郎(いしはらしんたろう)さんの強力な推薦によって選ばれ、16歳の時のこの作品が本格的な俳優デビューとなりました。

芸名の“津川”も石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」に登場する主人公“津川竜哉”から命名されたというのですから、相当な気に入られようだったのでしょう。

(ちなみに映画版「太陽の季節」で主人公“津川竜哉”を演じたのは兄の長門裕之さんでした。)

本当は新聞記者になりたかった津川雅彦さんでしたが、「狂った果実」がヒットした為に注目されて続々と俳優の仕事が舞い込んでくる様になります。本人がそれほど望んでいなくても、なめらかネームはヒット作に恵まれやすいのです。

しかし69年にデヴィ・スカルノさんとの不倫報道が流れ、世間の評判が悪くなってそれまでの仕事が激減してしまいました。

窮地に立たされていたところ、72年に時代劇「必殺仕掛人」で演出家から「世間から嫌われているんだから殺される役をやれ」と言われて悪役に挑戦し、再び注目を浴びるきっかけとなりました。以降続く「必殺シリーズ」の常連悪役となり、津川さんにとってもそれまでの二枚目役とは違う憎まれ役を演じる事で多くを学び、演技の幅が広がっていったそうなのでこれも当たり役に恵まれたと言えるでしょう。

73年には女優の朝丘雪路(あさおかゆきじ)さんと結婚して芸能界きっての“おしどり夫婦”と呼ばれ、以後45年も連れ添う事となります。

 

俳優としても軌道に乗り始め、NHKの朝ドラや大河ドラマにも数多く出演しました。特に大河ドラマなどの時代劇では徳川家康、綱吉など徳川家の将軍を演じる事が多く、これも当たり役と言えるでしょう。

映画では「お葬式」「マルサの女」などの伊丹十三(いたみじゅうぞう)さん監督作品、「ひとひらの雪」「別れぬ理由」「桜の樹の下で」などの渡辺淳一(わたなべじゅんいち)さん作品など“お得意様”を増やしていきました。もちろん確かな演技力があったのでリピート(何度もキャスティング)されたという事です。

また個人ではおもちゃ販売会社「グランパパ」を設立したり、競馬好きが興じて馬主となり自分の名前「マサヒコ」をつけたりと、俳優業以外に様々な経営・事業などに進出していました。

その点は本名の加藤雅彦“ノーペアネーム”だった為の「不安定」さが出ていたのかも知れません。

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また60代半ばとなった2006年には「寝ずの番」で映画監督に挑戦し、紫綬褒章を受章しました。

この時には叔父にあたるマキノ雅弘(まさひろ)さんが映画監督として名を上げていた事からそれにあやかろうと、マキノ雅彦という名義を使いました。

母音ではなく文字で見ると(きのさひこ)と、「ま」が2つ入る“ワンモアネーム”になります。

俳優以外に映画監督としても成功したのですから“ワンモア”な活躍と言えますね。

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本名の“加藤”、子役の頃に父の芸名を授かった“澤村”、石原慎太郎さんから命名された“津川”、母と叔父から譲り受けた“マキノ”と、苗字だけで4つの名前を使い分け、それぞれの特性を活かした方だったのです。

 

2018年4月に妻の朝丘雪路さんに先立たれ、後を追う様に同年8月、心不全の為78歳で亡くなられました。葬儀(お別れの会)は合同で行われ、たくさんの花が飾られた色とりどりの祭壇にはお二人の笑顔の写真が並んでいました。

改めてご冥福をお祈りいたします。

 

この様に芸能人のお名前を母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

田村正和さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第271回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第271回目の今日は田村正和さんです。

このお名前は本名です。

 

ローマ字で書くとTAMURA MASAKAZUとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

“なめらかネーム”の特徴は男女を問わず俳優業に強く、当たり役に恵まれやすいという特性があります。

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大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎俳優、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)さんの三男として生まれた田村正和さんは、幼い頃から何となく父と同じ仕事をしたいと考えていました。

9歳の時に父・阪東妻三郎さんは亡くなりましたが、その思いがどこかに残っていたのでしょう。先に俳優デビューしていた長男の田村高廣(たかひろ)さんが主演した映画「旗本愚連隊」の撮影を見学に行った際に出てみないかと薦められ、1960年に端役ながら17歳で映画に初出演しました。

翌年映画会社の松竹と専属契約して、本格的に俳優としての活動をスタートさせます。

四男の田村亮(りょう)さんも芸能界に入って俳優デビューした為、“田村三兄弟”と世間では呼ばれていましたが、次男の田村俊磨(としま)さんは俳優には興味を示さずサラリーマンとして働いていたので実際には四兄弟です。

 

66年までは学業との両立をはかり、大学卒業を機に松竹からフリーとなりましたが、すぐに大きな仕事が舞い込んでくる事はなく、しばらくは脇役ばかりの日々が続きます。

70年にそれまで交際していた一般女性と結婚すると、その年出演したテレビドラマ「冬の旅」でようやく世間の注目度が上がり、以降は二枚目の役が多くなりました。

そして72年に時代劇「眠狂四郎」の主演が決まり、「この作品を代表作にしたい」と意気込んだ田村正和さんは東京の自宅を引き払って、撮影が行われた京都に移り住みました。

そんな甲斐もあって時代劇を見る世代の新たなファン層を取り込み、特に多くの女性ファンを獲得する事となったのです。

 

80年代に入ると時代劇の二枚目役とは打って変わったコメディタッチのホームドラマにも挑戦、「うちの子にかぎって・・・」や「パパはニュースキャスター」などが高視聴率を記録して新境地を切り開きました。

下の名前(まさず)には「か」が入るので自分に厳しくなる“お・か・きネーム”でもあります。

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二枚目しか出来ないのでは役者として失格ではないかと自分を追い込んでいたのでしょう。

またNGをほとんど出さなかった事も有名であり、セリフは撮影に入る前に完璧に頭に叩き込んでいたそうです。

トレンディドラマが流行りだした80年代後半には「ニューヨーク恋物語」でまたぐっと渋い二枚目を演じ、主婦層の女性ファンを魅了しました。

 

そして94年、後にシリーズ化され真の代表作となる「古畑任三郎」(第1シーズンのみ「警部補 古畑任三郎」)に主演します。

脚本家三谷幸喜(みたにこうき)さんの意地悪ではないかと思えるほどの長いセリフを流暢にまくし立て、難事件を解決するドラマは正に痛快であり、田村正和さんにしか出来ないハマり役(当たり役)だったと言えるでしょう。

その独特な口調を真似するタレントも増え、新たなモノマネの定番ともなりました。「眠狂四郎」や以前のドラマを知らない世代にとって、田村正和古畑任三郎となったのです。

毎回犯人役で登場する大物ゲスト(俳優だけではなかったので敢えてゲストと書きます)と古畑との対決も見もので、回を重ねる毎に視聴率は上昇していきました。

余談ですがこの作品で古畑の部下“今泉巡査”を演じ俳優としてブレイクした西村雅彦(にしむらまさひこ)さんも“なめらかネーム”です。

 

◉“俳優”であるが故に

 

普段は無口で撮影以外ではほとんど喋らないと言われていた田村正和さんが、「古畑任三郎」では饒舌に喋っていたのは昔ながらの俳優気質だったからと思われます。

“なめらかネーム”の俳優は決められたセリフを覚えたり喋ったりするのは得意なのですが、自由に喋っていいよと言われると喋れなくなるシャイな方が多いのです。

田村正和さんはその代表的な方であり、だからドラマ以外のバラエティー番組などにはほとんど出演が無かったのです。プライベートを一切見せない姿勢も“夢を売る仕事”と捉えていたからであり、俳優の本来あるべき姿を体現していたと言えます。

 

70代に入った2013年頃からは仕事をセーブする様になり、2018年に放送された「眠狂四郎The Final」が最後の出演作品となりました。

3年後の今年4月、心不全の為77歳で亡くなった事を思うと、最後まで俳優として生き抜いた見事な生き様だったと言えるでしょう。

改めてご冥福をお祈りいたします。

 

この様に芸能人のお名前を母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。