矢名樹ヒロタカの「お名前だけお借りします。」

有名人のお名前を「名前の法則」に基づき紹介、分析していきます。

美空ひばりさん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第200回)※2020年8月27日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第200回目の今日は美空ひばりさんです。

このお名前は芸名で、本名は加藤和枝といいます。

 

ローマ字で書くとMISORA HIBARIとなり、フルネームの最初と最後の母音が同じ「イ」である事がよくわかります。

この様なお名前を、最初の母音に戻るという意味でリターンネームと呼びます。

“リターンネーム”の芸能界での特徴は、女性の場合まず歌手業に強いという事です。

blog.housoku.work

 

第二次世界大戦の最中、父親の出征の際に開かれた壮行会で唄った歌が集まった人達の涙を誘い、娘の歌には人を惹きつける力があると感じた母親が、歌による慰問活動を始めさせたのがきっかけでした。

終戦後は青空楽団を設立して近所の公民館などに舞台を作り、母親の提案で美空和枝(みそらかずえ)と名乗って舞台に上がっていました。

1946年、「NHK素人のど自慢」で「りんごの歌」を唄うと「上手いが子供らしくない」と審査員に言われて不合格となりましたが、翌年の春に地元・横浜で行われたのど自慢大会の終了後に審査員の古賀政男(こがまさお)さんの所へ「どうか娘の歌を聴いてください」と懇願してアカペラで唄うと、「君はもうのど自慢の段階じゃない、立派に出来上がっている」とお墨付きを貰ったのです。

翌年、喜劇役者の伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)さんの劇団に参加し、横浜国際劇場と純専属契約を結びます。その時の演出家に母親が芸名を下さいと依頼し、“ひばり”の名を貰ったという説が有力とされています。

1949年、日劇のレビューに出演して笠置(かさぎ)シヅ子さんの「東京ブギウギ」などを唄い踊る姿が面白がられて、映画「のど自慢狂時代」にブギウギを唄う少女として初出演しました。ちなみにこれはまだテレビの本放送がスタートする前の出来事です。

更に映画「踊る竜宮城」に出演して主題歌「河童ブギウギ」を唄い、B面ながら11歳でこれが正式なレコードデビューとなります。

続いて12歳で主演を果たした映画の同名主題歌悲しき口笛が、当時の最高となる45万枚のヒットを記録して国民的認知度を得ました。

その後も数々の映画に出演し(まだ映画が娯楽の王道だった時代)、歌も「東京キッド」「りんご追分」「お祭りマンボ」などを次々にヒットさせ、国民的スターとなっていきました。

とにかく1950年代は映画の出演本数が年間7〜8本から多い年で15本、シングルレコードも月1枚以上(2枚同時リリースも当たり前)のハイペースで、多い年は20枚以上も発売していました。(今なら1枚のアルバムとして出すものを、2曲ないし1曲ずつシングルで出していたと思われます。)

これはもう昨今の、人気俳優とか人気アーティストとか呼ばれている方たちとは比べ物にならない数です。この点もいまだ“歌謡界の女王”と呼ばれている所以なのです。

 

そんなピークが落ち着きかけた(落ち着いたと言っても10あった物が8に減った程度)1962年、雑誌の企画で対談した俳優の小林旭(こばやしあきら)さんと結婚しました。

しかし母親を始めとする周囲の反対もあり、わずか2年で離婚します。

(現:ひばりプロダクションの社長・加藤和也(かとうかずや)さんは養子であり、小林旭さんとの間に子供はいません)

小林旭さんも「未練はあるが、僕と結婚しているより芸術と結婚しているほうが幸せなら」と“理解離婚”に踏み切りました。

ひばりさんも「芸を捨てきれなかった、母も捨てきれなかった」と、また歌手の道に生きる決意を固めます。

ひばりさんの数あるヒット曲の中でも「柔」「悲しい酒」「真っ赤な太陽」などの代表曲とされる歌は、全て離婚後に発表されたものだったのです。

 

70〜80年代前半は大きなヒットこそ無かったものの、フォークソングやニューミュージック系のアーティストなどからも楽曲提供を受け、ジャンルの幅を広げていきました。

86年のヒット曲「愛燦燦」もそういった試みの結果でしょう。

しかしその頃になると腰痛、慢性肝炎、大腿骨頭壊死症などの病魔に苛まれ、ステージに立つ事もままならなくなります。

それでも88年の東京ドームオープンに伴うこけら落としのコンサートでは、唄う事はおろか立つ事すら難しい病状と言われ、ステージ裏では医師や救急車も待機する中、気力を振り絞って全39曲を唄いきりました。

それはずっと舞台に立ってきた歌手・美空ひばりとして、大勢のファンの前で弱い姿を見せられないというプロ意識の表れだったでしょう。

本名の加藤和枝というお名前を母音ではなく文字で見ると(とうずえ)と、「か」の字が2つも入る“お・か・きネーム”なのです。 

blog.housoku.work

歌手である前に一人の人間としても、人一倍自分に厳しい方だったと思われます。

(斜体文字が加筆した部分です)

コンサートのエンディングで花道を歩いた後、袖で待っていた和也さんの元へ倒れるように抱きつき、そのまま救急車で病院に運ばれたそうです。

ドーム公演後も病状は改善されず、ステージにもリフトを使わないと上がれない程でしたが、予定されていた全国13カ所の公演を全てこなしました。

そして89年、時代は昭和から平成へと変わり、最後のシングルとなった川の流れのようにが発売されます。

前年のレコーディングの時点ではアルバムの中の1曲となる予定でしたが、ひばりさんの強い要望によりシングルとなりました。それほど惚れ込んだ、思い入れの強い1曲だったのです。

同年2月7日、九州厚生年金会館での公演を最後に、突発性間質性肺炎と診断され余談を許さない状況となりました。4月には故郷・横浜に竣工された横浜アリーナこけら落としコンサートも予定されており、「這いずってでもやりたい!舞台の上で死ねたら本望なの!」と懇願しましたが、それは叶わぬ願いとなりました。

 

1989年6月24日、52歳でこの世を去ったのです。

それはまるで昭和という1つの時代の終わりを告げるかの様でした。

 

亡くなった後、その多大なる功績が評価され、女性初の国民栄誉賞が贈られました。

ベスト盤などのアルバムも今だにセールスを続けています。

令和初の紅白歌合戦では最新の技術を用いた“AI美空ひばり”が登場し、新曲「あれから」を披露する一幕もありました。

天性の歌手美空ひばりの歌声は、昭和から平成、令和へと時代が変わってもなお人々の心に生き続けているのです。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。