矢名樹ヒロタカの「お名前だけお借りします。」

有名人のお名前を「名前の法則」に基づき紹介、分析していきます。

藤山寛美さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第274回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第274回目の今日は藤山寛美さんです。

このお名前は芸名です。

 

ローマ字で書くとFUJIYAMA KANBIとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

“なめらかネーム”の特徴は男女を問わず俳優業に強く、ヒット作や当たり役に恵まれやすいという特性があります。

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本名は稲垣完治(いながきかんじ)といいます。

明治から大正時代にかけて大阪の道頓堀に存在した劇団、成美団(せいびだん)の俳優藤山秋美(ふじやましゅうび)さんの末男に生まれた稲垣完治少年は、病気で他界した父の“藤山”を継承して芸名を藤山寛美とし、1933年(昭和8年)に4歳で初舞台を踏みました。

その後二台目渋谷天外(しぶやてんがい)さんの誘いで13歳の時に松竹家庭劇に移ります。

終戦前後の混乱の中で慰問隊として旧満州に渡ったり、中国のハルビン市でキャバレーのボーイや靴磨きをしたりしながらも1947年に帰国し、二台目渋谷天外さんが中心となって創設された松竹新喜劇に参加する事となりました。

そして51年、天外さん作の「桂春團治(かつらはるだんじ)」の舞台で演じた酒屋の丁稚(でっち)役が批評家や演劇評論家から高く評価され、たちまち人気者となったのです。

渋谷天外さんと藤山寛美さんのコンビは松竹新喜劇の二大看板として大勢のお客さんを集めましたが、俳優の子に生まれた事もあってか昔ながらの俳優・芸人気質(宵越しの金を持たない)であった為、毎晩の様に夜の街を豪遊していたといいます。それは本人だけでなく母親からも「遊ばん芸人は華が無うなる」と教えられていたそうです。

バーのボーイにチップとして車のキーを渡すなど、今では考えられない様なお金の使いっぷりでしたが、その分知人に騙されてお金を貸す事も多く(当然返ってこない)、いつしか借金をしながらも豪遊する様になり、66年には当時の金額でおよそ1億8千万円の負債を抱えて自己破産してしまいました。

そのせいで松竹芸能からもマネジメント契約を解除され、松竹新喜劇にも出演できなくなります。

寛美さん不在の時期はミヤコ蝶々(ちょうちょう)さんと南都雄二(なんとゆうじ)さん夫妻を迎えて新・松竹新喜劇を展開するも以前ほどの客足は伸びず、渋谷天外さんが脳出血で倒れた事もあって、松竹は寛美さんの借金を立て替えてまで、再び舞台に呼び戻す事となりました。

そうして返り咲いた寛美さんは松竹新喜劇の中心となり、1970年代は「藤山寛美3600秒」と題して松竹新喜劇の模様がテレビのゴールデンタイムで毎週放送されるなど、正に黄金時代となりました。

 

◉日本(西)の喜劇王

 

全盛期の松竹新喜劇の醍醐味は、何と言ってもラストで藤山寛美さん演じる(阿呆な)丁稚が泣くシーンです。何をやっても失敗ばかりで上手くいかなかった丁稚が困り果てた挙句、みっともない程わんわんと大声で泣きわめくのが定番でした。

ところがその丁稚が泣いた瞬間、会場のお客さんからは大きな拍手が沸き起こるのです。舞台の主役が涙を流しているのに、客が喜び笑っている。これは他の芝居なら異様な光景です。

では何故そんな不思議な現象が起きるのか?

それは丁稚が何度も失敗しながらも、彼なりに一生懸命取り組んできたからなのです。

頭が悪いなりに一生懸命考え、真剣に頑張ってきた姿をお客さんが見ていたからこそ、「よっしゃよっしゃ(よしよしの関西弁)、お前はどう仕様もない阿呆やけど、阿呆なりによう頑張ったな。」という哀れみと賛辞が入り混じった感情が、拍手となって沸き起こるのです。

これがもし丁稚がヘラヘラと笑いながら、ふざけてやっていたらそんな拍手は起こらないでしょう。

藤山寛美さんは丁稚を演じる時、ほとんど笑う事はありませんでした。演者が笑うと一生懸命さが伝わらないと、どこかで分かっていたのでしょう。

これはかの喜劇王チャップリンにも通じるものがあります。チャップリンも映画で主人公を演じていた時、ほとんど笑顔を見せませんでした。当の本人はいたって真剣に取り組んでいても、周りで様々なハプニングが起こる。本人が真剣だからこそより面白く映る。それがチャップリン無声映画の魅力であり、喜劇の真髄です。つまり笑うのは見ているお客さんであり、演者(コメディアン)は笑ってはいけないのです。

かつて「日本の喜劇王」と呼ばれた“エノケン”こと榎本健一 (えのもとけんいち)さんを東の喜劇王とするなら、西の喜劇王は間違いなく藤山寛美さんでしょう。

 

芸名を母音ではなく文字で見ると(ふじやまんび)、本名も(いながきかんじ)と、どちらも「か」や「き」が入る“お・か・きネーム”になります。

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松竹新喜劇に復帰後、20年間1日も休まずに舞台に立ち続けたという逸話が残っていて、財布の紐はゆるくても自分と芸事には厳しかったと思われます。

しかしそんな無理が祟ったせいか、1990年に60歳の若さでこの世を去りました。

 

五人の子供(うち二人は連れ子)は全員娘であった為、後継者はいないと思われましたが、三女(実子の中では長女)にあたる直子さんが、祖父と父の芸名を踏襲して藤山直美(ふじやまなおみ)と名乗り、女優兼喜劇役者として後を継ぐ事となったのです。

藤山直美さんも“なめらかネーム”です。)

さてこの“藤山”という苗字、文字で見ると(ふじやま)と「ふじ」が入る“ふじさんネーム”でもあります。文字で見ると言うより読み方を変えると(ふじさん)とも読めるので生粋の“ふじさんネーム”ですね。

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これは褒め言葉として捉えてもらいたいのですが、藤山寛美さんは決して“二枚目”ではありませんでしたし、藤山直美さんも決して“美人女優”ではありません。それでもこの“ふじさんネーム”の俳優は「実力派」と呼ばれる方が多いのです。

藤山直美さんも「実力派女優」と呼ばれていますよ、ね。

また、五女(実子の中では三女)にあたる美千留さんの長男(寛美さんの孫)で俳優として活動していた酒井扇治郎(さかいせんじろう)さんが“藤山”の名を受け継ぎ藤山扇治郎と改名して松竹新喜劇に入団しました。

藤山寛美さんの意志は、その名前と遺伝子と共に浪速の演劇界に受け継がれているのです。

 

この様に有名人のお名前を母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。