矢名樹ヒロタカの「お名前だけお借りします。」

有名人のお名前を「名前の法則」に基づき紹介、分析していきます。

西城秀樹さん【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第276回)

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第276回目の今日は西城秀樹さんです。

このお名前は芸名です。

野口五郎さんは第143回、郷ひろみさんは第255回で紹介済みなので“新・御三家”の中で最後になってしまいました。)

 

ローマ字で書くとSAIJO HIDEKIとなります。

苗字の最後の「じょう」と、下の名前の最初の文字「ひ」、

フルネームの最初の文字「さ」と、最後の文字「き」の母音が違います。

この様なお名前を同じ母音のペアが出来ない事から“ノーペアネーム”と呼びます。

“ノーペアネーム”は芸能活動が不安定になりがちです。

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本名は木本龍雄といいます。

ローマ字で書くとKIMOTO TATSUOとなり、

苗字の最後の文字「と」と、下の名前の最初の文字「た」、

フルネームの最初の文字「き」と、最後の文字「お」の母音が違います。

本名も“ノーペアネーム”ですね。

 

二歳上のお兄さんと小学生の頃からバンドを組むなど音楽に慣れ親しんでいた木本龍雄少年は、高校一年生の時にR&B喫茶のレギュラーバンドのボーカルとして唄っていたところをスカウトされ、父親の反対を押し切って広島から上京して芸能界に入りました。

その半年後の1972年3月には一般公募によって選ばれた西城秀樹という芸名で、「恋する季節」で歌手デビューします。

すると1年も経たないうちに、同時期にデビューした野口五郎(のぐちごろう)さんや(ごう)ひろみさんと共に新・御三家と呼ばれ、一躍トップアイドルの仲間入りを果たしました。

特に5枚目のシングル「情熱の嵐」で、「🎵君が望むなら(ヒデキ〜!)」とファンが叫ぶ“ヒデキコール”で人気に火が点いたと言えるでしょう。

続く6枚目の「ちぎれた愛」で4週連続オリコン1位に輝くなど、人気を不動のものとします。

その後も「激しい恋」「傷だらけのローラ」などのヒット曲を連発し、多くの女性ファンを魅了しました。

しかしこの方の名前をお茶の間に浸透させたのは、私に言わせれば「ハウス・バーモントカレー」のCMだったと言わざるを得ません。

辛い筈のカレーに甘いリンゴと蜂蜜が溶け込んでいるという理不尽さと、それが一聴するだけで分かる明快なCMソング、更に「ヒデキ、感激〜!」と韻を踏むキャッチコピーを最後に本人が言う事で強烈な印象を与えたのです。

(同CMには「ヒデキ、ごきげん!」や「ヒデキ、満足!」など別バージョンのコピーもありましたが、一番浸透したのは「ヒデキ、感激〜!」でした。)

“ノーペアネーム”はCM運の強い名前です。

このCMは1973年から12年にも渡って放送され、バーモントカレーと共に西城秀樹さんの名前を世間に定着させました。

またドラマ「寺内貫太郎一家」に長男役で出演すると、主演の小林亜星(こばやしあせい)さんとの本気の親子喧嘩シーンも話題になりました。

芸名を母音ではなく文字で見ると(さいじょうひで)と「き」が入る上に、本名も(もとたつ)と、「き」と「お」が入る“お・か・きネーム”になります。

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アイドルとして多忙なスケジュールをこなしながらも喧嘩のシーンで手を抜かなかったのは自分への厳しさからだったでしょう。小林亜星さんに投げ飛ばされて腕を骨折した事もあった程ですから。

70年代中期は「アイドル水泳大会」の花形スターとして郷ひろみさんと毎回トップ争いをして盛り上げていました。

ただ胸毛から下腹部につながる体毛が印象的過ぎたのか、83年に唄った「ギャランドゥ」がいつしかへそ辺りの体毛の濃い男性を指す隠語として使われる様になってしまい、本来の意味(“Gal and do”を文字った女性名)を失ってしまいました。

まぁそれだけ印象的な活躍をされていたという事でしょう。

 

本業の歌以外の話題ばかりになってきてしまいましたが、ちゃんと本業でも大ヒットを飛ばしました。

79年に発表した「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」が、「ザ・ベストテン」の得点ボードが4桁までの為最高点となる9999点を2週に渡って獲得したのです。

この歌はサビの「Y.M.C.A」の文字を身体で表現する振り付けがヒットの要因になりました。70年代後半はピンク・レディーが一世を風靡していたので女子が真似を出来る振り付けはあっても、男子が真似を出来る振り付けはあまり無かったので(鬱憤がたまっていて)、当時の男子はこぞって「Y.M.C.A」の振り付けを真似したと思われます。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」は新・御三家の全てのシングルの中でも最大のヒットとなり、西城秀樹さんの代表曲となりました。

 

しかしそれほどのヒットを飛ばしたにも関わらず、80年代には“たのきんトリオ”などの後輩アイドルに押されて、ランキング形式ではない「夜のヒットスタジオ」などでしかテレビで唄う機会が無くなっていきます。

この点がノーペアネームの安定の無さと言えるかも知れません。

80年代は香港、シンガポールなどに進出してむしろ日本よりアジアでの人気のほうが高かったそうです。

90年代の秀樹さんの印象と言えば、余程のファンの方でない限り「ちびまる子ちゃん」のエンディングで流れた「走れ正直者」以外になかったんじゃないでしょうか。

2001年に一般女性と結婚するも直後に脳梗塞を発症し、それからは長い闘病生活が続きました。2年後に再び発症して言語障害の後遺症がありながらも何とか復帰し、新曲を発表するなど活動を続けていましたが2011年にまた再発して今度は右半身麻痺状態となります。

脳梗塞の影響か滑舌も悪くなり、若い頃から見てきた世代にとっては痛々しい姿でしたが、それでも懸命にリハビリを続けて杖をついて歩けるまでに回復しました。やはり自分に厳しい方だったのですね。

もう一つは、何としても60歳まで活動を続けて「ヒデキ、還暦!」と言いたいというモチベーションがあったからなのです。

これは私が茶化して言っているのではなく、ご本人が何かのインタビューで語っていた事なので間違いありません。きっとそれが病気と闘う為の心のよりどころになっていたのでしょう。

そして2015年4月13日、60歳の誕生日におよそ8年半ぶりとなるアルバムを発売し、赤坂BLITZで「ヒデキ還暦!」と題した記念のライブを開催しました。

盟友の野口五郎さんや小川知子(おがわともこ)さん、今陽子(こんようこ)さんなど往年の歌手の方々も駆けつけてお祝いし、最後は「YOUNG MAN」を唄ったそうです。

ええ、60歳でも「YOUNG MAN」唄っていいんです。何と言っても一番ヒットした代表曲ですから。

 

それから3年後の2018年5月16日、最後は急性心不全により63歳でこの世を去りました。

若い頃の“元祖・絶唱系”とも言える激しい唄いっぷりや「YOUNG MAN」の派手なイメージが先行していたせいか、亡くなってから歌唱力が再評価されている様です。

葬儀の出棺の際には「YOUNG MAN」と「ブルースカイブルー」が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びて斎場を後にしました。

「ブルースカイブルー」の歌詞にこんな一文があります。

「もう二度と逢えぬあの人・・・青空よ、遠い人に伝えて さよならと」

ファンならずとも、秀樹さんを失った「悲しみはあまりにも大きい」ですね。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな有名人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。