矢名樹ヒロタカの「お名前だけお借りします。」

有名人のお名前を「名前の法則」に基づき紹介、分析していきます。

美空ひばりさん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第200回)※2020年8月27日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第200回目の今日は美空ひばりさんです。

このお名前は芸名で、本名は加藤和枝といいます。

 

ローマ字で書くとMISORA HIBARIとなり、フルネームの最初と最後の母音が同じ「イ」である事がよくわかります。

この様なお名前を、最初の母音に戻るという意味でリターンネームと呼びます。

“リターンネーム”の芸能界での特徴は、女性の場合まず歌手業に強いという事です。

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第二次世界大戦の最中、父親の出征の際に開かれた壮行会で唄った歌が集まった人達の涙を誘い、娘の歌には人を惹きつける力があると感じた母親が、歌による慰問活動を始めさせたのがきっかけでした。

終戦後は青空楽団を設立して近所の公民館などに舞台を作り、母親の提案で美空和枝(みそらかずえ)と名乗って舞台に上がっていました。

1946年、「NHK素人のど自慢」で「りんごの歌」を唄うと「上手いが子供らしくない」と審査員に言われて不合格となりましたが、翌年の春に地元・横浜で行われたのど自慢大会の終了後に審査員の古賀政男(こがまさお)さんの所へ「どうか娘の歌を聴いてください」と懇願してアカペラで唄うと、「君はもうのど自慢の段階じゃない、立派に出来上がっている」とお墨付きを貰ったのです。

翌年、喜劇役者の伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)さんの劇団に参加し、横浜国際劇場と純専属契約を結びます。その時の演出家に母親が芸名を下さいと依頼し、“ひばり”の名を貰ったという説が有力とされています。

1949年、日劇のレビューに出演して笠置(かさぎ)シヅ子さんの「東京ブギウギ」などを唄い踊る姿が面白がられて、映画「のど自慢狂時代」にブギウギを唄う少女として初出演しました。ちなみにこれはまだテレビの本放送がスタートする前の出来事です。

更に映画「踊る竜宮城」に出演して主題歌「河童ブギウギ」を唄い、B面ながら11歳でこれが正式なレコードデビューとなります。

続いて12歳で主演を果たした映画の同名主題歌悲しき口笛が、当時の最高となる45万枚のヒットを記録して国民的認知度を得ました。

その後も数々の映画に出演し(まだ映画が娯楽の王道だった時代)、歌も「東京キッド」「りんご追分」「お祭りマンボ」などを次々にヒットさせ、国民的スターとなっていきました。

とにかく1950年代は映画の出演本数が年間7〜8本から多い年で15本、シングルレコードも月1枚以上(2枚同時リリースも当たり前)のハイペースで、多い年は20枚以上も発売していました。(今なら1枚のアルバムとして出すものを、2曲ないし1曲ずつシングルで出していたと思われます。)

これはもう昨今の、人気俳優とか人気アーティストとか呼ばれている方たちとは比べ物にならない数です。この点もいまだ“歌謡界の女王”と呼ばれている所以なのです。

 

そんなピークが落ち着きかけた(落ち着いたと言っても10あった物が8に減った程度)1962年、雑誌の企画で対談した俳優の小林旭(こばやしあきら)さんと結婚しました。

しかし母親を始めとする周囲の反対もあり、わずか2年で離婚します。

(現:ひばりプロダクションの社長・加藤和也(かとうかずや)さんは養子であり、小林旭さんとの間に子供はいません)

小林旭さんも「未練はあるが、僕と結婚しているより芸術と結婚しているほうが幸せなら」と“理解離婚”に踏み切りました。

ひばりさんも「芸を捨てきれなかった、母も捨てきれなかった」と、また歌手の道に生きる決意を固めます。

ひばりさんの数あるヒット曲の中でも「柔」「悲しい酒」「真っ赤な太陽」などの代表曲とされる歌は、全て離婚後に発表されたものだったのです。

 

70〜80年代前半は大きなヒットこそ無かったものの、フォークソングやニューミュージック系のアーティストなどからも楽曲提供を受け、ジャンルの幅を広げていきました。

86年のヒット曲「愛燦燦」もそういった試みの結果でしょう。

しかしその頃になると腰痛、慢性肝炎、大腿骨頭壊死症などの病魔に苛まれ、ステージに立つ事もままならなくなります。

それでも88年の東京ドームオープンに伴うこけら落としのコンサートでは、唄う事はおろか立つ事すら難しい病状と言われ、ステージ裏では医師や救急車も待機する中、気力を振り絞って全39曲を唄いきりました。

それはずっと舞台に立ってきた歌手・美空ひばりとして、大勢のファンの前で弱い姿を見せられないというプロ意識の表れだったでしょう。

本名の加藤和枝というお名前を母音ではなく文字で見ると(とうずえ)と、「か」の字が2つも入る“お・か・きネーム”なのです。 

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歌手である前に一人の人間としても、人一倍自分に厳しい方だったと思われます。

(斜体文字が加筆した部分です)

コンサートのエンディングで花道を歩いた後、袖で待っていた和也さんの元へ倒れるように抱きつき、そのまま救急車で病院に運ばれたそうです。

ドーム公演後も病状は改善されず、ステージにもリフトを使わないと上がれない程でしたが、予定されていた全国13カ所の公演を全てこなしました。

そして89年、時代は昭和から平成へと変わり、最後のシングルとなった川の流れのようにが発売されます。

前年のレコーディングの時点ではアルバムの中の1曲となる予定でしたが、ひばりさんの強い要望によりシングルとなりました。それほど惚れ込んだ、思い入れの強い1曲だったのです。

同年2月7日、九州厚生年金会館での公演を最後に、突発性間質性肺炎と診断され余談を許さない状況となりました。4月には故郷・横浜に竣工された横浜アリーナこけら落としコンサートも予定されており、「這いずってでもやりたい!舞台の上で死ねたら本望なの!」と懇願しましたが、それは叶わぬ願いとなりました。

 

1989年6月24日、52歳でこの世を去ったのです。

それはまるで昭和という1つの時代の終わりを告げるかの様でした。

 

亡くなった後、その多大なる功績が評価され、女性初の国民栄誉賞が贈られました。

ベスト盤などのアルバムも今だにセールスを続けています。

令和初の紅白歌合戦では最新の技術を用いた“AI美空ひばり”が登場し、新曲「あれから」を披露する一幕もありました。

天性の歌手美空ひばりの歌声は、昭和から平成、令和へと時代が変わってもなお人々の心に生き続けているのです。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

ちあきなおみさん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第199回)※2020年8月26日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第199回目の今日はちあきなおみさんです。

このお名前は芸名で、本名は瀬川三恵子といいます。

 

ローマ字で書くとCHIAKI NAOMIとなり、苗字の最初と下の名前の最後の母音が同じ「イ」である事がよくわかります。

この様なお名前を、最初の母音に戻るという意味でリターンネームと呼びます。

“リターンネーム”の芸能界での特徴は、女性の場合まず歌手業に強いという事です。

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この記事でも紹介している様に「ヒット曲に恵まれる」方が多く、違うジャンルに進出しなくても、ほぼ歌手業だけで成功するという傾向があります。

 

4歳の頃から米軍のキャンプをまわって唄うほど歌が好きだった少女は、20歳の頃にレコード会社のオーディションを受け保留となりました。

橋幸夫(はしゆきお)さんやこまどり姉妹の前座歌手を務めながら1年4ヶ月のレッスンを受け、デビューの時を待ちます。

ちあきなおみという芸名の由来は、当時フジテレビのプロデューサーだった千秋予四夫(せんしゅうよしお)さんという方の苗字を“ちあき”と読ませ、坂本龍馬の諱(いみな)であった直柔(なおなり)から取って“なおみ”としたそうです。かなり複雑で引用した方も2人とも男性というなんとも不可解なネーミングです。

1969年、21歳の時に「雨に濡れた慕情」で歌手デビューしましたが、その時のキャッチフレーズも「苗字がなくて名前が二つ」だったそうで、そこを売りにする辺り面白みを狙って名付けられたと思われます。

本名の原形も留めておらず、リターンネームになったのも偶然でしょう。

なお本名の瀬川三恵子というお名前をローマ字で書くと

SEGAWA MIEKOとなり、同じ母音のペアが出来ない“ノーペアネーム”です。

(斜体文字が加筆した部分です) 

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とは言えそんなに悪い名前とも思えませんが、何か完全な芸名にしなければならない理由でもあったのでしょうか。

いずれにせよ偶然リターンネームになったお陰か、ヒット曲運が開花していきます。

デビュー2年目に発売した「四つのお願い」がヒットして紅白歌合戦にも出場し、歌手としての知名度が上がっていったのです。

 

そしてその2年後、喝采という運命の1曲と出会います。

この歌は主人公の女性歌手がステージに上がっていた時に訃報が届き、意中の男性が亡くなった事を知るという悲しい歌でしたが、ちあきなおみさんが情感を込めて唄い上げた事で感動を誘い大ヒットしました。ちあきさんの実体験に基づいて作られたのではないかという噂もありましたが、あながち当たらずも遠からずで、前座歌手時代に兄の様に慕っていた若手役者が急死したという経験をしていたのです。

ちあきさんはおそらくその方を思い浮かべながら唄っていたのでしょう。思い入れも強かったこの歌が年末には日本レコード大賞を受賞して、歌手人生の代表曲となります。

その後続いた「劇場」「夜間飛行」などの楽曲は“ドラマティック歌謡”とも呼ばれました。

 

そんなヒット曲もありながら本人は意外とひょうきんな一面もあり、「元祖どっきりカメラ」や「欽ちゃんのドンとやってみよう!」などのバラエティー番組にも出演していました。

リターンネームはバラエティー運もある名前なのです。

単に出演していただけなら“運”と言うほどではないでしょうが、「元祖どっきりカメラ」の出演が縁で俳優の宍戸錠(ししどじょう)さんから実弟の俳優郷鍈治(ごうえいじ)さんを紹介され、78年に結婚したのです。

芸能人同士の結婚、普通なら女性が引退するのが相場でしょうが、ちあきさんはヒット曲もある有名な歌手、郷鍈治さんは端役ばかりの無名な役者だった為、結婚後は郷鍈治さんが芸能界を引退し、ちあきさんの個人事務所を設立して社長兼マネージャーとなりました。

ちあきさんもヒット曲を追うのではなく、自分の唄いたい歌にじっくり取り組みたいと、マイペースで活動を続けるようになります。紅白歌合戦の連続出場も8年で途絶えてしまいました。

 

結婚から10年後、レコード会社の移籍を機に歌手活動を本格的に再開し、「NHK歌謡パレード’88」の番組オリジナルソングとして唄った紅とんぼ」が好評となり、11年振りに紅白の舞台に返り咲きます。

89年には初のミュージカルにも挑戦し、好評につき再演が行われるなど、再び充実の時を迎えたかに見えましたが、92年に夫の郷鍈治さんが肺がんの為55歳でこの世を去ってしまいます。

人生最大の伴侶を失ったショックは大きく、郷さんが荼毘(火葬)に付される時、ちあきさんは棺にしがみつきながら「私も一緒に焼いて」と号泣したそうです。

まるで「喝采」の歌詩の様に、歌手として生きながら最愛の人を亡くしたちあきさんは、その後全ての芸能活動を休止し、人前に姿を表していません。

運命に翻弄された歌手ちあきなおみは、元の瀬川三恵子という1人の女性に戻っていったのです。

 

この様に芸能人のお名前を画数ではなく母音に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

石川さゆりさん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第198回)※2020年8月25日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第198回目の今日は石川さゆりさんです。

このお名前は芸名で、本名は石川絹代(いしかわきぬよ)といいます。

 

ローマ字で書くとISHIKAWA SAYURIとなり、苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事からなめらかネームと呼びます。

また、フルネームの最初と最後の母音が同じ「イ」である事もよくわかります。

この様なお名前を、最初の母音に戻るという意味でリターンネームと呼びます。

つまり石川さゆりさんは“なめらかネーム”と“リターンネーム”の両方に該当します。

この同じ母音のペアが2つ出来るタイプのお名前を、トランプのポーカーの役にかけてツーペアネームと呼びます。 

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まず“リターンネーム”の芸能界での特徴は、女性の場合歌手業に強いという事です。 

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この記事でも紹介している様に「ヒット曲に恵まれる」方が多く、違うジャンルに進出しなくても、ほぼ歌手業だけで成功するという傾向があります。

 

1972年、中学3年生の時にテレビの「ちびっこ歌謡大会」に出場予定だった友人が急に出られなくなった為、代わりに出場したところ見事合格して芸能界へスカウトされました。

その直後には連続ドラマ「光る海」に沖雅也(おきまさや)さんの妹役でレギュラー出演していたそうで、歌手より女優デビューのほうが先だったのですね。

翌73年に「かくれんぼ」という歌でアイドル歌手としてレコード・デビューしましたが、当時は“花の中3トリオ”と呼ばれた森昌子さん・山口百恵さん・桜田淳子さんらが大人気だった為に、3〜4年ほど日の目を見る事が出来ずにいました。

本名を母音ではなく文字で見ると(いしぬよ)と、「か」と「き」の字が入る“お・か・きネーム”でもあります。

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生まれ持っての自分に厳しいタイプなので、デビューからなかなか日の目を見れなかった時期も挫ける事なく、むしろ歌を基礎から学び直しながら、民謡や日舞などの新たな技術にも取り組んで吸収していたのです。(斜体文字が加筆した部分です)

 

そして76年に出したアルバムの中の1曲だった津軽海峡・冬景色がシングル・カットされて大ヒットし、77年の紅白歌合戦に初出場を果たします。

更に能登半島沈丁花(じんちょうげ)などもヒットして、演歌歌手としての道を歩み出したのです。

歌一筋の印象が強い石川さゆりさんですが、70年代後半頃まではよくドラマにも出演していました。ただ歌手業のほうが忙しかった為に1話だけのゲスト出演などが多く、なかなか軌道に乗る事はありませんでした。

もし「津軽海峡・冬景色」のヒットがなかったら、昨日紹介したいしだあゆみさん同様なめらかネーム+ゆうゆうネーム”のWで俳優運の強い名前なので、女優に転身していてもおそらく成功していたでしょう。

 

津軽海峡・冬景色」だけでも一生食べていけるのではないかという程の代表曲となったのですが、この方の一味違うところはもう1曲、一生もの級の大ヒットを生み出すところにあるのです。

86年に発売した天城越えが、石川さゆりさんにしか唄えない様な難しい歌と設定されたにも関わらず、逆に“唄いがいのある歌”としてじわじわとヒットし、カラオケの定番曲になったのです。

津軽海峡・冬景色」では『🎵凍えそうな鴎(かもめ)見つめ泣いていました』『🎵さよならあなた、私は帰ります』と泣いて身を引く弱い女性の心情を唄っていましたが、「天城越え」では『🎵誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですか』と、女の強い情念を唄い上げました。

“ツーペアネーム”の石川さゆりさんは、か弱い女性的な歌に適したリターンネームの力で「津軽海峡・冬景色」を唄い、男性並みの力強い歌に適したなめらかネームの力で「天城越え」を唄い上げたのではないかと思われます。

歌手業に専念した分、名前の持つ力を全て歌につぎ込めたと思われるのです。

この2曲のヒットで紅白歌合戦の常連となり、1984年から37年連続(通算では43回)出場しています。

2007年からは「津軽海峡・冬景色」と「天城越え」を1年おきに交互で唄い、年末の風物詩となりました。

ご本人は「お陰で新曲が唄えない」と内心複雑な気分になっているようですが、1曲もヒットに恵まれず辞めていく歌手も多い中で、なんと贅沢な悩みなんでしょうか。

 

芸名はツーペアネームですが、石川絹代という本名がノーペアネームなせいか、あまりお喋り好きではなく、目立ちたがりでもない様です。

やはりこの方も石川さゆりという芸名によって大きな幸運を掴んだ1人なのかも知れません。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

いしだあゆみさん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第197回)※2020年8月24日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第197回目の今日はいしだあゆみさんです。

このお名前は芸名で、本名は石田良子といいます。

 

ローマ字で書くとISHIDA AYUMIとなり、苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「ア」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事からなめらかネームと呼びます。

また、フルネームの最初と最後の母音が同じ「イ」である事もよくわかります。

この様なお名前を、最初の母音に戻るという意味でリターンネームと呼びます。

つまりいしだあゆみさんは、なめらかネームとリターンネームの両方に該当します。

この同じ母音のペアが2つ出来るタイプのお名前を、トランプのポーカーの役にかけてツーペアネームと呼びます。

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まず“リターンネーム”の芸能界での特徴ですが、女性の場合まず歌手業に強いという事です。

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オリンピックに出場経験もあるスケート選手の姉石田治子(いしだなおこ)さんの影響でスケートを習っていた12歳の頃に芸能界へスカウトされ、児童劇団に入団します。

16歳の頃にいしだ・あゆみ名義でレコード・デビューし(昔のレコードでよくあった、A面とB面に違う歌手の歌が入ったカップリングの様な形が多かった)、ドラマにも出演するなどタレント的な活動をしていましたが、20歳になった頃歌手活動に専念する為レコード会社を移籍し、名前も「・」を取っていしだあゆみとすると、移籍後第3弾のシングル「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットして紅白歌合戦にも出場しました。

その後も「あなたならどうする」「砂漠のような東京で」などがヒットして紅白には9年連続で出場を果たし、歌手として一時代を築きます。

 

ただ、新曲の売り上げは徐々に下降線を辿り始め、芸能活動を続ける為には何か打開策が必要となってきます。

丁度そんな頃から映画やドラマなど女優業に進出し、映画「青春の門 自立篇」では助演女優賞、マドンナ役として出演した「男はつらいよ」では主演女優賞を受賞するなど、演技力で高い評価を受けました。

ドラマでは「北の国から」や「金曜日の妻たちへ」などのヒット作に出演し、女優としての地位も確立していきます。いや歌手から女優へ完全にシフトチェンジしたと言っていいでしょう。

ここで“なめらかネーム”の特徴ですが、男女を問わず俳優業に強く当たり役やヒット作に恵まれやすいという特性があります。 

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更に母音ではなく文字で見ると(いしだあみ)と、下の名前に「ゆ」の字が入る“ゆうゆうネーム”でもあります。

(斜体文字が加筆した部分です)

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これまでにこのブログでも何度か説明してきた通り、名前に「ゆう」または「ゆ」が入る方は元々他のジャンルでも俳優業で成功する方が多いのです。

実際に歌手として密な活動が続いていたのは10年程度で、女優業に移行してからはもう40年近くが経っています。

そう考えると最初から女優向きの名前だったのかも知れませんね。

歌手として歌が売れなくなって、肩書きが女優に変わる方はたくさんいらっしゃいましたが、ここまでの成功例はなかなかいないでしょう。

なめらかネームとゆうゆうネームの、Wで女優運の強い名前だからこそ出来る業、といった所でしょうか。

 

芸名はバラエティーにも強いリターンネームですが、バラエティーにはほぼ出演がありません。そこは石田良子(いしだりょうこ)という本名がノーペアネームなので、あまりお喋り好きではないのでしょう。なめらかネームの様な目立ちたがりでもないので素の部分はほとんどテレビで見せません。

そんな奥ゆかしい方が何故芸能界で成功したのか。それはいしだあゆみという芸名がもたらした奇跡だったのかも知れません。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

小柳ルミ子さん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第196回)※2020年8月23日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第196回目の今日は小柳ルミ子さんです。

このお名前は本名ですが、下の名前は漢字で留美子と書きます。

 

ローマ字で書くとKOYANAGI  RUMIKO となり、フルネームの最初と最後の母音が同じ「オ」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、最初の母音に戻るという意味で“リターンネーム”と呼びます。

“リターンネーム”の芸能界での特徴は、女性の場合まず歌手業に強いという事です。 

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この記事でも紹介している様に「ヒット曲に恵まれる」方が多く、違うジャンルに進出しなくても、ほぼ歌手業だけで成功するという傾向があります。

 

中学卒業後に宝塚音楽学校に入学した小柳ルミ子さんは、「宝塚を首席で卒業したら歌手にしてあげる」という芸能プロダクションの提示した条件を見事にクリアして、芸能界入りの切符を手にします。

ただ初舞台だけは踏みなさいと言われ、宝塚歌劇団に2ヶ月だけ入団し、夏川るみという芸名を名乗っていました。

退団後は顔を売る為とNHK連続テレビ小説(朝ドラ)にも出演し、満を持して歌手デビューすると、わたしの城下町がいきなりの大ヒットを記録します。オリコン年間シングル売り上げの1位となり、レコード大賞最優秀新人賞まで受賞するのです。

翌年には瀬戸の花嫁もヒットして“2年目のジンクス”を打ち破り、歌手としての地位を確固たる物にしました。

この歌は唄い出しの『🎵瀬戸は〜日暮れて〜、』の部分を『🎵瀬戸ワンタン、日暮れ天丼〜、』とする替え歌も流行るなどして広く知られたのです。

当時は20歳前後と若かった為にアイドル的存在と位置付けられる事もありましたが、年齢を重ねるうちに大人の歌手へと変貌していきます。

その後も「星の砂」「来夢来人」(スナックの歌ではない)などコンスタントにヒットを飛ばしていましたが、デビュー当時程の派手さはなく売り上げも徐々に下降線を辿っていきました。

しかし小柳ルミ子さんはただのリターンネームではありません。

歌手業の一方で映画「誘拐報道」に出演すると、アカデミー賞の最優秀助演女優賞を獲得し、翌年「白蛇抄」では最優秀主演女優賞を受賞するなど、宝塚時代の演技経験を活かして女優としても活躍しました。

その後発売した「お久しぶりね」「今さらジロー」などもヒットしたのです。

母音ではなく文字で見ると(やなぎるみ)と、「こ」の字が2つ入る“ワンモアネーム”でもあります。 

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一度失いかけた勢いを女優業で取り戻す、これも“ワンモア”な活躍と言えます。

 

でもそれだけではありません、リターンネームはバラエティーに強い名前でもあるのです。

当時無名のバックダンサーだった大澄賢也(おおすみけんや)さんと結婚すると、「セイシュンの食卓」の1コーナーで夫婦で踊りながら料理を作るという、それまで積み上げてきた輝かしい歴史を投げ捨てる様な乱心ぶりを見せます。

しかしそれが評判となり、他の番組でも夫婦揃って出演する機会が多くなりました。

“ワンモアネーム”はグループでも成功してソロとしても成功する“ワンモア”な活躍をされる方が多いのですが、宝塚に2ヶ月だけ所属していたもののほぼ最初からソロと言える小柳ルミ子さんの様な方の場合、結婚後も人気を維持できるという特性もあるのです。

同じ歌手では小泉今日子(いずみきょう)さんや、女優では松嶋菜々子(つしななこ)さんもそうですよね。(斜体文字が加筆した部分です)

 

また大澄賢也さんも俳優・タレントとして名を上げていきました。

ちなみに大澄賢也さんのお名前をローマ字で書くとOSUMI  KENYA5つの母音が全て入る“ロイヤルネーム”なのです。

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“ロイヤルネーム”は結婚運の強い名前です。

無名のダンサーが有名芸能人と結婚し、俳優・タレントになったのですから結婚運は非常に強いと言えますね。(ただその後は離婚されていますので“結婚運が良い”とは意味が違うようです。)

 

ここ数年は年間2000試合以上を観戦するヘビー・サッカー・ウォッチャーとして、サッカー関連の番組への出演が増えています。

小柳ルミ子さんの事を歌手と呼ぶ人もいれば、女優と呼ぶ人もいるでしょう。バラエティータレントだと思っている方もいるかも知れません。

それだけ何をやっても許されるのは、デビュー当時の大ヒット曲があるからなのです。

歌手にとってヒット曲に恵まれるというのはそれだけ大きな事なのです。

そして歌や芝居だけでなく、時には夫婦生活や趣味まで仕事に変える。それが芸能界で50年以上も生き続ける秘訣なのです。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧下さい。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

佐藤浩市さん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第195回)※2020年8月20日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第195回目の今日は佐藤浩市さんです。

このお名前は本名です。

 

ローマ字で書くとSATO  KOICHIとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「オ」である事がよくわかります。

(平仮名で書くと“さとう”となるので、苗字の最後の母音が「ウ」だと思われがちですが、「と」を伸ばしている音ですので、カタカナで書くと“サトー”となり、最後の母音は「オ」という事になります。)

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。

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“なめらかネーム”は男女を問わず俳優業に強く、当たり役やヒット作に恵まれやすいという特性があります。

 

俳優・三國連太郎(みくにれんたろう)さんを父に持つ佐藤浩市さんは、幼少期から撮影所に連れられて何度も足を運ぶ内に、いつしか自分も俳優になりたいと考える様になりました。

しかし三國連太郎さんは佐藤浩市さんを残して家出という形で離婚した為、俳優としては尊敬しても父としては失格の烙印を押して軽蔑していました。

親子なのに苗字が違うのは、三國連太郎さんが映画デビュー作の役名をそのまま芸名にした為です。(本名は佐藤政雄(さとうまさお)といいます)

参考までにこのお名前、ローマ字で書くとMIKUNI  RENTARO5つの母音が全て入る“ロイヤルネーム”です。

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生前4度の結婚に加え(浩市さんは3度目の結婚相手との間に生まれた子)、様々な恋愛遍歴を重ねて浮名を流した事でも知られるほど、非常に“モテる”方だったと思われます。

“ロイヤルネーム”は恋愛体質になる方が多いので、芸名でもその特性が発揮されてしまったのでしょう。(斜体文字が加筆した部分です)

 

佐藤浩市さんは東京の多摩芸術学園の映画学科に通いながらNHKのドラマで俳優デビューを果たすと、翌1981年公開の映画「青春の門」で主役級に抜擢されて注目を浴び、映画のヒットによって制作が決まった続編の「青春の門 自立篇」に主演しました。

自分でも映画館に行き、スクリーンに映った自分の姿を見て「俳優として生きていこう」と、父と同じ世界に飛び込む決意を固めたそうです。

映画にドラマにと次々と出演を重ね、86年に映画「人間の約束」で初めて親子共演となりましたが、上記の通り確執もあった為、直接関わり合う事もほぼありませんでした。

お互い距離を置きながらも切磋琢磨していく中、96年に2度目の共演の機会が訪れます。

映画「美味しんぼ」で三國連太郎さんが海原雄山役にキャスティングされた時、主演の山岡士郎役を佐藤浩市さんに演じさせるよう指名したのです。

しかしそこでもまだわだかまりは消えておらず、お互い他人行儀に「三國さん」「佐藤君」と苗字で呼び合う距離感だった為、会見などでも気まずい雰囲気が流れていました。

 

2000年代に入ってようやく親子関係に改善の兆しが見え始め、自然に和解する様な形となっていきました。

それまでシリアスな役が多かった中、三谷幸喜(みたにこうき)さん監督の「THE 有頂天ホテル」や「ザ・マジックアワー」などでは新境地とも言えるコメディーにも挑戦し、時代に応じて役柄も変化していくのは役者の宿命と言わんばかりに、ジャンルの枠を取り払った事でその後もオファーが殺到して、今や日本映画には欠かせない存在となりました。

また、三國連太郎さんのライフワークとも言える「釣りバカ日誌」にもゲスト出演するなど、親子の距離も縮まっていきました。

 

しかし2013年、三國連太郎さんが90歳でこの世を去ります。

喪主を務めた佐藤浩市さんは葬儀の前日も「撮影を休む事は故人の意思にそぐわない」と

映画の撮影を休まず、弔辞の中で「これからも役者を続けていく中で今日の事を思い出せば、お前の雑な芝居も少しはマシになるだろうと、最後にまた三國連太郎に教えられた気がします。」と述べました。

それはまるで映画のワンシーンの様で、父を亡くした息子役を演じているのではないかとさえ思えました。家庭を顧みないほど俳優に生涯を捧げた父への、悔しさもこもった最後の言葉だったのです。

佐藤浩市さんの息子寛一郎(かんいちろう)さんも2017年に俳優としてデビューし、映画「一度も撃ってません」では親子共演も果たしています。

親子三代で俳優とは、血筋は争えないものなのですね。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

ではまた次回をお楽しみに。

 

中井貴一さん(2回目)【お名前診断】[母音占い]

勝手にお名前診断 (第194回)※2020年8月19日の記事を改訂

 

この「勝手にお名前診断」では、有名人をお一人ずつ紹介すると共に「名前の法則」的見地から、芸能界のどのジャンルに向いているかなどの適性を診断していこうと思います。

 

第194回目の今日は中井貴一さんです。

このお名前は本名です。

 

ローマ字で書くとNAKAI  KIICHIとなり、

苗字の最後と下の名前の最初の母音が同じ「イ」である事がよくわかります。

この様なお名前を「名前の法則」の世界では、苗字と下の名前のつながりがなめらかで言いやすい事から“なめらかネーム”と呼びます。 

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“なめらかネーム”は男女を問わず俳優業に強く、当たり役やヒット作に恵まれやすいという特性があります。

 

昭和20年〜30年代に二枚目俳優として活躍した佐田啓二(さだけいじ)さんの長男である中井貴一さんは、3歳になる直前にお父さんが交通事故で亡くなった為にその活躍ぶりをほとんど見ておらず、俳優になる事も考えていませんでした。

しかし大学在学中の20歳の頃に映画監督の松林宗惠(まつばやししゅうえ)さんのスカウトを受け、1981年の映画「連合艦隊」で俳優デビューをしました。

 

83年のテレビドラマ「ふぞろいの林檎たち」で生真面目かつ不器用な主人公を演じ、共演の時任三郎(ときとうさぶろう)さん、手塚理美(てづかさとみ)さん、石原真理子(いしはらまりこ)さんらの人気とも相まってドラマは大ヒットし、その後パートⅣまで制作されるほどの人気シリーズとなりました。柳沢慎吾(やなぎさわしんご)さんの人気も多少はあったかも知れません。)

お父さんの様な“色気のある”二枚目俳優ではなく、純朴な青年でもヒット作に恵まれたのです。

映画では85年、「ビルマの竪琴」で主役の水島上等兵を演じて話題となり、また88年には大河ドラマ武田信玄」で、主演予定だった松平健(まつだいらけん)さんの降板により、上杉謙信役から急遽主演(武田信玄役)に昇格し、40%に近い平均視聴率を記録するなど、これまた大ヒットとなりました。

その後も大河ドラマには都合5作品にも出演する常連になったのです。

 

ちなみにお姉さんの中井貴惠(きえ)さん(こちらもなめらかネーム)も女優として活動されていましたが、87年の結婚を期に休業(事実上の引退)をされました。

 

育ちの良さから滲み出る清潔感もあって、時代劇の武士や戦争映画の青年将校など、真っ直ぐな生き様の役が多かった中、90年代頃から映画では「極道戦争 武闘派」でのヤクザ役、ドラマでは「Age,35 恋しくて」で家庭がありながらも不倫に溺れる主人公を演じるなど、演技の幅を拡げていきました。

 

2000年以降、年齢も40代に差し掛かり、普通のベテラン俳優なら脇にまわって若手俳優を支えるポジションに落ち着きがちですが、今もドラマや映画ではほとんど主役を演じ、ワイドショーのキャスター役や総理大臣役など、年齢に合わせて役が用意されているのではないかと思えるほどの(高倉健さんが68歳の時に「鉄道員(ぽっぽや)」に主演した様な)レベルに達しています。

母音ではなく文字で見ると(ないち)と、「か」と「き」の字が入る“お・か・きネーム”でもあります。 

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生まれ持っての自分に厳しいタイプなので、責任の重い立場(ドラマや映画がヒットしなかった場合、主役のせいにされる事が多い)である主役の座に立ち続けていられるのでしょう。(斜体文字が加筆した部分です)

始めは親の七光りでスカウトされて入った様な世界でもおよそ40年に渡り、59歳になった今も一線で活動し続けているのです。

 

この様に有名人のお名前を画数ではなく母音や文字に注目して分析すると、名前のタイプによって芸能界のどのジャンルに向いているかが見えてくるのです。

もっと詳しく知りたいと思った方はこちらをご覧ください。

これからもいろんな芸能人の方を、名前の特性とともにご紹介していくつもりです。

 

 ではまた次回をお楽しみに。